色素感について-2 

 「色素感」について-2
 
(色素感の発生)
  視覚は予め(人に備えられた感覚)なので「なぜ色や形が見えるのか?」など考えず
「モノや色が見える」のは(ごく当たり前)ことでした。
「色の利用について」は、大昔から、仲間の識別や標識用の染料や化粧、絵画用の画材など・・へ、と進んできたと思われます。
 (絵具など)色料は、動植物(草木や花)の色や、顔料(土や鉱物)の色を集めたモノなので・・、(逆に)これらの微粉末が色の元であり「色素が色の原因」と考えたのです。

(日常経験の色素感)
 私達は、生まれてこの方(ン十年か?)、常に物の形を(色で判断)をしてきました。
 物の表面には(絵具の粉)のような「色(素)」が分布していて、これが光って色が見える・・、だから「色素が色の原因」と説明されると(ごく簡単に)納得して、「色=色素を見る・扱うコト」が日常経験で、色感覚として積み重なってきます。

(色の数と原色)
 色ははじめ、材料名で呼んでいましたが(利用色数が次第に増えるので)、原色数をある程度に制限し(他の色は原色の混合で作り出せる)と考えました。
 色変化は連続的で(明らかな境はナイ)が、虹などの現象から(・赤橙黄緑青藍紫・)の7色が(原色)と思われた、のでしょう)

(光の三原色)
 ニュートンの分光実験(1666)によって「光が色の原因」となり、(赤緑青)の「三原色光論」が有力視され、他にも多くの「光物理」が色の世界に導入されました。
 中でも、色の性質についての「グラスマン則(1853))は、ほぼ完成されされたもので、現在でも「三原色説の基本」になっています。

(心理色彩派)
 しかし、従来からの経験則を重視する人達(ゲーテが有名、後に心理色彩派と呼ぶ)は、光物理や科学を嫌って(心理に逃げ)、(論理を超えて何でも反対)の立場から、加法混色に対抗した「減法混色」や「補色・色相環」などを(デッチ挙げて)これを(強引に押し込み)色彩の世界を(混乱・破滅させた)のです。

(現行の色彩学)
 現在の色彩学は、近世以来の(対立論争や混乱)をそのまま引き継ぎ、その後の(科学や技術の進歩を無視して)何等の改訂も行わず(旧式の対立する論理や誤りをそのまま並記して)持ち込んでいます。

(色はいろいろ) 
 現行(旧色彩=三原色)の誤りについては、これまでにも何度も説明をしてきましたが、どうしても(ワカラナイ)と言う人が居ます。
 トコトン膝詰めで話をすると・・、その人の言う「色」は、(その時々によって違って居て、筆者が言う色と異なり、話が全く噛合っていなかったのです。
 この場合(どのような色)と(色を規定しない)まま、話を進めたので、何時まで経っても埒が空かないのでした。
 色と一口に言っても(三原色の色光や色料の色、色相環の色、水中の色や空の色、物体表面の色など・・)その「状態や質感が全く違うモノを指している」・・というコトでした。
 この点では、筆者も、旧色彩論の三原色を混ぜこぜにし(相互の関連を説明しないまま)「欠点を揚げつらうような感じなので反感を買ったのだろう」と反省をしています。

(色彩学は存在しない)
 筆者がこれまで「旧色彩学」として挙げてきた話は、相互に関連はなく、どれも(本来は)別々の話で、色彩学として纏まった話や体系は存在しません。
 これまで、旧色彩学と、十把一絡げにした話も、色彩の永い歴史を比較用に(筆者が)経時的に縮めて並べた感があります。
 夫々は別の話で、目的や用途・背景などを明らかにして、どこを比較するのか・・などを、お話すべきだった、と思われます(これからは気を付けます)。

 (旧色彩の夫々の話は、この後すぐに採り上げますが、その根底には、先に挙げた「色素感」がある・・ことを重ねて言って置きます(ここが理解出来れば、(AllOK)です。)
 デハ今日はこの辺で・・

(明日から次回手術の予備検査です)、前回のような(連日講習)は到底出来そうもありません。 週のはじめに(テ−マを絞ったお話)をしようか、と思っています。