旧色彩の混迷 


 旧色彩の混迷
 (旧色彩は混迷の歴史)
 現代の色彩学は、(混迷の極み)でおよそ学問(体系)と言えるような(成果やルール)は何一つ有りません。
 近世(17世紀)以降 総べての学問や技術が発展し、夫々が大きな成果を挙げているのに、独り色彩の世界は(逆に混乱退歩の道を)を歩んできました。
 何故こうなったのか?・・、近世以降の(物理や科学の発展)が色彩の世界にも及びましたが、(物理を受け容れない)旧色彩派と新物理派との対立を産むことになりました。
 色彩の世界は「感覚の世界」なので「簡単な物理や論理では説明出来ない面が多かった・・」こともあり、未だにこの対立は解けぬままで、現行の色彩学には、両者の妥協の産物(可笑しな理論が)そのままに残っているのが実情です。
 これについて、これ以上述べることはしません。 要するに(旧色彩は根本が間違いなので)総ての(ルールや規則は)放棄して欲しい、と言うことです。

(視覚と色)。
 「視覚」は、光によって、身の周りのモノの(形や明暗・色を)知り、食糧確保、危険回避の手段になるように、元々人に与えられた(獲得してきた)感覚でした。 だから視覚の本命は、光の有無、明暗、輪郭、大小、形状、色、詳細な質感・・となり、視覚の本命は、明暗であり輪郭形状の認識が第一の目的で、「色」は視覚の働きとしては、補助的(第2義的)なものだったのです
 旧色彩の誤りは、色を重視する余り「有彩色のみが色であり、白黒を(色として)認識出来なかった」ことにあります。(色相環の円板に白黒軸を立てたが、明度と白黒を混同しました)

(色素感の誤り)
 旧色彩の第2の誤りは、科学(物理・光学)を忌避して、旧色素論飽く迄離さなかったコトにあります。
 色彩は感覚によって起こるもので、単純な物理則の説明では不十分で(理屈に合わない・理解出来ない)面が多く、却って経験的な旧色素論に傾斜した面があるようです。←(正しい理解が求められますが、潜在意識は仲々抜けない)
 旧色彩(三原色素論)を捨てて、物理現象を正しく見る、視覚の働きをシステム工学的に捉える見方を身に付けて下さい。