三原色に見える 


 三原色に見える      波長と色相環波長と色

 (色彩学 ←(三原色説)の崩壊)
 これまで「色の原理」として(絶対視)された「三原色説」は完全に崩れました。
 しかし、これは(色素論 ← 物量的な材料・要素が色を作る)が否定されただけで、「三原色の現象のように見える・・」と言う事実は変わりません。 「三原色説」と言っても(歴史的な変遷があり)その中身は色々でした。
 しかし問題は、その中身が「何が何んでも三原色」の大合唱に(意図的に?)かき消されて・・「一般庶民には見えない状態」だ、ということです。
 筆者が採り上げ・解明をしてきた幾つかの問題も、これまでに(多くの人が気付き、解決を試みてきた)と思いますが・・、三原色の権威の前に消沈させられた・・と思うのです。

 (三原色に見える)
  〜 は、皆んなの感想(感覚)ですが、実験・観測で再現可能な事実でもります。「並列・共動の三原色の理論」がどうであろうと、事実が消えることはナイのです。
 コレまでの色彩学は、三原(色素)に依拠してきたため(物理的な色が絶対不変)で、色の思考を「三原色」の押し込めてしまったようです。
 見る人によって、また明るさや周りの環境で色が変わる、という事実を無視して・・「何が何でも三原色」という風潮だった・・と思うのです。

 (三種の錐体センサー)
 旧来からの色彩学は、三原(色素)論だから、色は外界の現象で、発光源や空間・周辺物質の状態で決まるモノで「色は外から来るモノ、自然から与えられるモノ」で、目に入った光は「そのまま 色」だったのです。
 色は(色素)によるモノで、光りや物質表面に付いた色素で予め決まるモノで、・・「何故、色が見えるのか?、色の構成や色の調整など、色の変化などは、頭から考えなかったようです。
 私達は、視覚システムの解明を試みる中で、センサー部分の入力信号と、目に送る出力信号は、夫々の目的が違い、同一の信号構成を採らないコトに気付きました。

 (三原色は網膜だけ)
 私達は、外の景色を三原色で感じ・見ていました。 網膜は外景を小さな写影画像として捉え、→ 錐体センサーがデータ変換を行い 頭脳システムへ・・画像のデータを送り込みます。
 システムでは、色々のの処理を行い・・ 最終的にデータは、元の錐体位置にへ返えされて出力画像として配置されます。 錐体は、光学的な逆変換装置なので、網膜への出力データを「カラー画像」に変換して見せてくれるのです。
 ∴ ここでシッカリと見て下さい。 外の景色がカラーなのはレンズを通って網膜に至る迄で・・、網膜センサーで変換されると(LMS)のデータです。 LMSの形で処理を受け→ 網膜にお売り帰され、・・センサーで逆変換で戻されるまで色ではナイのです。
 三原色は、出力データを色に見せるため(広範な赤外域を再現出来ない)の「映写装置の電球の色」だったのです。

 (光りと色の研究)
 コレまで多くの人が、色についての研究を重ねてきました。 しかし「光り」の本質が十分理解されないママに進められたキライがあり、 夫々は独立したままの成果で終わり、お互いに融合し合うコトが無かったようです。
 私達は、色や光の本質を真正面から追及し、人の視覚システムとの関わりもホボ明らかに出来ました。
 ここに至って漸く、{各人別々のデータを持ち寄り(隠されたデータ)など・・、総てを俎上に乗せて色の集大成が作れる・・} ように、思うのです。

 (図面の説明)
 *(ブリュッケ図、1A) 「色の波長範囲は明るさによって変わる」コトを早くから示したしたモノでしたが・・、{三原(色素)説に(色が動くことは)都合が悪い}と徹底的に無視されてきました。 不変色相や色の範囲が示されていました。
 * 筆者が、センサー感度図に分布傾斜を重ねて、色判定の様子を探ったモノです
 * 光り(電磁波)の波長範囲と可視光線の幅、および太陽光の輻射強度の図です。 人の視覚が太陽光の範囲総てをいかに使って色表示したかを見て下さい
 * 第2図AとCは、センサー感度。LとMセンサーが分布回転の中心を跨いで、分布傾斜をも計測する(巧妙さ)に注目して下さい
 * 等色関数の図 多くの人の協力で得られた図なのに(何の成果もも引き出せナイ)は悲しいコトですネ
 * 横並びの図面ですが、全て色環を使ったものです。光りが三原色に見える事実に基づいた解析です。